人に迷惑をかけない死に方が見つからない

せめて死ぬときぐらい人に迷惑をかけたくないと思っているのに、いざ具体的に考え始めると良い方法があまりない。

海に飛び込むのが一番マシかもしれんと思って、今のところは東尋坊か三段壁が候補に入っている。

八木山橋も考えたけど、2mの柵を超えるのは難しいと思う。

 

色々調べてみるけれど、ここが一番という所はやはり見つからないし死ぬ間際になってどうしてこんなことに頭を悩ませなければならないのかという苛立ちのようなものも覚える。

もし良い場所や方法を知っていれば誰か教えてほしい。

お願いします。

 

自殺をなにか美しいものととらえる不快な風潮

 

三島由紀夫の「死の美学」という本を見かけて、ふと思ったことがある。

自殺を美しいものと捉える傾向は、殊更文学などの中に見受けられることがあると思うがそれが一体どれほどの人に、現実味をもってフィクションであると認識されているだろうか。

美しいとは言わずとも、自殺を潔いことだと思っている人間は一体どれくらいいるんだろう。

 

個人的な事を言わせてもらえば、自分は死を真剣に考えるようになるまでは潔いことだと思っていた。

採るべき手段が無くなった時に、生活保護を受けたり、人に後ろ指を指されながら生きたり、生きるために犯罪に手を染めるより、自殺と言う方法を取る方が余程己の名誉を守り、自尊心を傷つけず、人の迷惑にならない「潔い」答えであると思っていた。

念のために言うが、生活保護を受ける人のことを批判したいのではなく、自分自身が生活保護を受ける価値がないと思うのだ。こんな未来もなにもない人間にお金を払うのであれば、未来ある若者にそのお金を使ってほしい。

 

だけど真剣に自殺を考えるようになってからは、潔いとか自尊心がどうだとか、そんなことはまるで頭から抜け落ちてしまっている自分に気が付いた。

そんなことまで考える余裕がない。

ただ楽になりたい。この苦しさから解放されたい。

自分に関わる大勢の人間に影響を与えてしまう事をわかっていながらも、心の中でかけてしまう迷惑と不義理を謝りながら死んでいくんだと思う。

 

こんな心の内を抱えながら死んでいくことのどこが美しくて、どこが潔いと言うんだろう。

 

たとえこの死ぬ理由が悲劇的な恋を経た心中であっても、世の中を悲観して苦しくて仕方がなくて悲しくて死んでいく気持ち自体は変わらないと思うんだよ。

それを見てまわりの人間がそこに美を感じたり、なにか単なる自殺とは別次元のよいものとして捉えてしまう事は、なんだかずいぶんと勝手で、いびつなもののような気がする。

 

そんな、そんなものじゃないだろうって。

その裏にどれだけ悩んだ時間と苦しみがあって、どれだけ悩んだ末の結論であるかを考えようとせず、ある側面だけを切り取って、自分の言い様に歪曲して、その自分の妄想に酔いしれて。

 

結局、先の中学生の自殺に対する反応について不快を感じたのもそこに帰結するのかもしれない。

ああもうなんか、上手く言えないけど。

 

 

自分の死にたい気持ちを止めるために自殺防止に関する動画を見たりすることがあるんだけど、「生きたくても生きれない人がいる」系のことを言っている人が出てくると正直それだけで不快になるし、ああこいつ何もこっちの気持ちを分かろうとしてなくて自分の正義感だけ押し付けようとしてるなって、それだけでそれ以降のその人の話を聞きたくなくなるんだけどそれに近い不愉快を感じる。

 

 

まあでもあれかなあ。

自殺と言う最大の勝手をする人間には、人の勝手に憤る資格なんてないのかなあ。

少しさびしいような、虚しいような気持になる。

 

苦しいなあ。

 

今日もまた乗り遅れる

 

日本の自殺者の数は一日90人程であると聞いた。

毎日、いつ自分がその中の一人としてカウントされる日が来るのだろうかと考えている。

 

先日、中学生の女子生徒が二人電車に飛び込んで死んだというニュースを聞いた。

百合だとか、妄想が膨らむとか。その飛び込んだ心情に思いを馳せずその自殺を己の妄想に利用する者もいれば、死ぬことはなかったのにと月並みの言葉を述べる者もいた。

見たのは主にツイッターの呟きとニュースサイトのコメントだけど。

 

まあ、世間の反応としてはそんなもんだろうなあと思う。

人の自殺、ってこと日本においては近親者以外の人間にとっては迷惑なものとして受け止められていると思うし、なんだろうな、迷惑なものとして受け止められすぎているという気もする

電車が止まるという迷惑、普段意識的に感じることのない死という現象を感じてしまったというストレス。色々あるとは思うんだけど。

 

私は自殺なり他殺なりで人が死んだ話を聞くと、ああそこで一人の人生が終わってしまったんだなあと思って少しだけ怖くなる。

大都会ですれ違う人間にみんないままで幼少期から続いて人生を歩んできていて、家族がいて友人がいて職場があって、自分と同じように食べて考えて生きているのだと思うととても怖くなるときがあるんだけど、その中の誰かの人生がそこで終わってしまったんだなあ、っていう寂寥のようなものを感じる。

あと少しだけ、おいていかれたような、乗り遅れたような妙な気持ち。

 

まあ、だから何だということではあるんだけど。

 

 

ここ数週間メンタルの状態は最悪、減量のペースは絶好調。

水を飲んでも胃が痛むようにったので無気力な半餓死生活がはかどるはかどる

 

 

 

「夢を叶える」ことを強要するサクセスストーリーという宗教

 

皆、夢をあきらめるなと言う。

夢を追いかけることの重要性ばかりを説く言葉に出会う。

その度に、夢をあきらめる自分や逆境を跳ね返して夢を叶えるといったサクセスストーリーを歩めない自分がどうしようもない駄目な人間になってしまったような気がする。

 

落ちこぼれにはひどく生きにくい世の中だ。

 

夢をあきらめようとすると今まで頑張ったのだからという良く分からない理由と共に、夢を目指すステージに引きずり戻そうとする人間が多すぎる。

表向きは私のことを心配している風を装っているけれど、その実、度底辺から這い上がるサクセスストーリーを私を通して味わいたいだけなのではないかと思ってしまうのは私がひねくれていて、悲観的に物事を考えてしまうぐらい病んでいるからだろうか。

 

もう楽にさせてくれ

放っておいてくれ

 

将来への不安を煽るようなことを言ったその口で、二言目には綺麗ごとを言って正論を言って応援や期待という名の重りを私に乗せるのは辞めてくれもうたくさんだ

私の夢に乗っかってこないでくれ

諦めるという結論を出した私が誰より悩んで悩んで結論を出したって言うのに、どうしてあなたがそんなに引き留めるんだ、私の夢を語るんだ、私の努力が云々、っていったいあなたは何を知っているんだ

責めるような口調で揺さぶるのは辞めてくれ、貴方に相談したって何も変わらないのに当事者ぶるのは辞めてくれ、勝手に精神分析をしたつもりで私に心を推し図ろうとするのは辞めてくれ

 

もうたくさんだ、死にたい

 

 

 

 

 

※追記

いよいよ死にたくなってきたので遺書のページを削除した

 

 

「オカマ」という治外法権

 

セクシャルマイノリティー、LGBTという言葉や、そこに属している人たちを見ることが最近特に多くなった気がしている。

非常によく見るのはやっぱりマツコデラックスだろうか。

若い世代でも、ショップ店員や読者モデルと言う形でそのようなLGBT、中性のような人が多い気がしている。

 

タイトルではオカマという言葉を使ったけれど、一概にオカマというには性的マイノリティの人の事情と言うのは複雑すぎることもあるので、不適切かもしれないけどまあそこは言いだすときりがないので割愛する。

 

特徴としては①その多くが男であり、②姦しく、③歯に衣着せぬ物言いをするなど、とても自由に見えることだろうと思う。

 

こう言っている私もマツコデラックスはとても好きで、普段TV見ないけどあの人の番組はしばしば見ていたりする。

疲れていたり、落ち込んでいたり、目が死んでるようなときにああいう活力と元気に溢れていて何も恐れているものなんかありませんとでもいうようなトークを見ていると少しだけ気分がましになるような気がするのだ。

あと個人的にはマツコデラックスの礼儀正しいところが好きだ。

 

最近本当に落ち込んでいるけれど、悩みを相談するならオカマがいい。

オカマの人は苦労をしてきたから人生経験豊富で、厳しい意見をズバズバ言ってくれる(でもそこには励ましや応援が潜んでいる)という幻想を持っている。

それはオカマの人がテレビに出て、女の人にブスや性悪と言ったり、男の人をつまらない男だのどうしようもない奴だと言ったりしても何となく許されている雰囲気や、世間の風潮に対して「オカマという一般的な枠から少し外れた立場から斬新な意見を述べる」もしくは「大勢が言えないことを代弁して真っ当な意見を臆面もなく言う」ことが何となく求められているところから見ると、ある程度一般的な認識なのではないかと思う。

 

男が女にブスと言っても、女が女にブスと言っても角が立つ。

コメンティエーターが同じ様な社会批判をしていても、何となくオカマの人が声を張って最後にちょっと自虐や笑いを混ぜて言っていたら反発心を抱かなかったりすることもある。

要するに、オカマというのは治外法権なのではないだろうか。

 

 

私もオカマに相談したい。

死にたいなんて誰にも言えないけど、オカマになら言えるし前向きになれるコメント貰える気がしてる。

最近は無駄に時間だけが過ぎていってどんどん人生が手遅れになっている気がして、死にたい気持ちに拍車がかかってる

 

強まる自殺願望

 

抱え込んでいるからよくないのかもしれない。

対面で人に話せば少しはましになるかもしれないと思い、カウンセリングめいたものに行ってきた。

正式な精神科医の行うような治療目的のカウンセリングではなく、ただ話を聞いてもらうだけの。

 

結果としては、サービスとしては悪くなかったけど効果があるかと言われれば疑問で、正直昨日言って今日既に死にたいと思っているので効果があったとしても長続きはしていない様子。

今日も将来が真っ暗になる想像しか出来ずに頭を抱えて落ち込み、気分が悪くなっている。

 

最近は些細なことを間違う様になり、注意力と思考力の低下を感じる。

簡単な計算を間違えたり、明らかに黒猫郵便の不在票なのに郵便局の窓口に荷物を受け取りに行ってしまったり。

 

もう本当に駄目なのかもしれない。

生きていても仕方がないし、この世に未練もそうない。

親のことが気がかりではあるが、それだって死んでしまえば何もわからないんだからもうどうでもいいという気持ちになっている。今でも申し訳ないとは思うけれど。

 

しにたい。しにたい。

もういっそ楽にしてほしい

 

挫折してみじめに生きる私をわらってもいいからもう楽にしてほしい

 

自分が価値のない紙屑以下の存在のように思われる。

死ぬ前に誰かに助けを求めろって、一体誰に助けを求めろって言うんだ。

助けて、って言って、現実で誰かが助けに来てくれたことなんかないだろ。

 

苦しい、情けない、申し訳ない。

 

人から見れば取るに足らない悩みかもしれない。

10年後20年後に生きていれば笑い飛ばせるような悩みかもしれない

 

だけどもうむりだ

しにたい。

 

死にたいと文字に起こして書けるところがここしかない

誰かに助けを求めることもできないから、死にたいと言葉にすることもできない

 

しにたい

そう言っても現実は何も変わらないことを重々わかっていて、ただ時間だけを浪費することを理解していながら死にたいと繰り返すことしか出来ない

そんな自分が情けなくて申し訳なくて、また一層死にたくなる

 

しにたい、しにたい

出来るなら世の人の記憶からすべて消えて、この世に居なかったことにして消えてなくなりたい

 

人のふり見てわがふり直せ

 

 

前にも言ったかもしれないけど、自殺したい・自殺してしまう人間て言うのは自分を客観視出来ていないのだろうなと、しみじみと思ってしまう。

 

自分が死にたい人間なものだから、他の「死にたい人間」はどういう気持ちで今生きてるんだろうと知りたくなって、自殺したい人の集まるサイトを覗いたり、動画サイトで自殺する人の話を見たり、逆に自殺防止啓発動画を見たりすることがある。

ジェノサイド系の動画を見て、安全に生きていられるのはしあわせだと思わないといけないのだと言う気にもなるが(自分で自発的に思うのは良いが、こういうことを人に言われるのは大嫌いである)、思おうとしてそう簡単に思い込めるならこんなに死にたいと思っていない。

 

死にたい原因にも些細なものから重いもの、これ本気じゃないだろうなあ「悲劇のヒロイン」がやりたいだけだろうなあと思うものまでいろいろある。

そういうの見てると、自分自身だって死にたいと思ってるくせに、「若いのに、今から何だって出来るだろうに」とか「そんな原因で死ぬな」って、自分が言われたらちょっと溜息をついてしまいたくなるような言葉をつい人にかけたくなることがある。

 

多分、人から見たら自分も同じことなんだろうなあ。

 

でもなんというか、何だろう。

自分には価値がないと思っているものだから、自分の中では自分が自殺することと人の自殺を惜しむことと言うのは矛盾した行動ではないという気持ちも少なからずある。

 

人間にはすべからく生きる価値がある。ただし私は除く。

っていう考え方をすることがどうにも多い。よそはよそ、うちはうちを究極に突き詰めた形というか。

主語は「人間」なり「若者」なり「女性/男性」なりになったりするけど、「自分」はそういった大きなくくりの中の外にいるという意識がある。

だから人間には生きる価値があるし、若者はいつだってやり直せるんだからもう少し生きればいいのにと思うし、世界は素晴らしいと思うけど、ただし自分はそこには含まれてない。

 

他の「死にたい人間」ってどう考えているんだろう。

自分も死にたいから、人の「死にたい」も無条件に肯定するんだろうか。

 

死にたいと思うことは悪いことではないし、本当に死にたいというのならそれは止められないと思うし、自分がこうだから止める権利もないとは思うんだけど、でもどちらかというなら私は自分以外の人は生きてくれればいいのになあと思うなあ。

 

 

世の中は連休で浮かれているんだろうけど、私は一層死にたい気持ちが高まっている。

いいな。みんな旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、好きな人たちと笑いあったりするんだろう。

 

ここしばらくは何も考えずに、心から休みことのできる休日と言うものはなかった気がするなあ。

死ぬ前にはふらっと行きたかったところをめぐってから死のうか。

でも死ぬ前にどうしても行きたいと言う所もあんまり思い浮かばないけどなあ。