おはよう世界、だけど今日も朝が来たことに絶望する

 

春の陽気は心地よい、と思う。

寒くもないし、暑すぎることもない。

朝起きた瞬間にほどよく温かく、穏やかであることはとても気持ちよく目覚めることができる。

 

だけど落ち込んでいる人間にとってはそうじゃない。

目が覚めた瞬間の穏やかさに比例して、今日も朝が来たことに落ち込んで絶望する。

 

鬱病だ治療が必要だと言うことは簡単だろう。

おそらく病理の世界の定規で測るのならば、私はきっとその枠に当てはまる。

だけど、そう言われたところで何になるだろう。

薬を飲めば治るわけでもない。

鬱と言われて、腫物を扱う様に接してほしいわけじゃない。

 

頑張らなくてはならぬ時だと己を奮い立たせては、そのそばから空気が抜けてしまうように萎み落ち込む心と戦わなくてはならない。

私に必要なのは、その心が萎むことのないよう支える方法と、萎んでしまった心をまた奮い立たせるための気力なんだ。

 

それを与えてくれるのは、少なくとも薬でも鬱病と言う認定でもなんでもない。

 

このような気鬱の状況でいることは、ひどく苦しくて悲しい。

咲いた桜の花に憎しみを覚えるような人間では決してなかったはずなんだと、自分に絶望することは自分から自己肯定感を奪い、自分はまるで世界一酷い奴のように思えてしまう。

こんな人間は生きているべきではない。死んだ方がましなのではないか。

死んでしまえた方が楽なのではないか、と。

 

こんな自分であっても死ねば悲しんでくれる人がいるので、死ぬことは出来ないなあと思うし、有難いと思う反面それがまたひどく息苦しいと感じることもある。

死ぬことを一つの手段にカウントしてもいいような状況の人間もいるけれど、そういう人と言うのは必死に頑張って疲れてしまった人のことで、自分が今死んでしまう事は果たすべきことから逃げ甘えていること以外の何物でもないと思うから、おそらくは自分のプライドの為に、まだ自分は自殺と言う手段をとらないでいる。

このプライドを投げ捨てる時が先か、自分を苦しめる何かが己を去る時が先かは、将来のことなので今の自分にはわからないけれど。

 

 

だけど、このような状況になっても唯一、良かったと思えることがある。

健康であった時では気が付かなかったであろうことに気が付き、知ろうとしなかったであろう人たちのことを知ることが出来たことだ。

何か自分を救ってくれるようなものはないかと彷徨ううちに、そういうものに思いがけず出会えることがある。

 

昨日は志茂田景樹だった。

今日はウルグアイのホセ・ムヒカだった。

 

私はおそらくはまだ世間から若者と評される年齢に属している人間だろうとは思うが、自分では言うほどそう若いとも思えない。

だけど先に挙げた人達のように、己の倍以上生きて居る人たちのことを前にすると、やはり自分はまだ相対的に見ればまだ若いのかもしれないなあと思う。

 

歳を経た人は自分たちの生きてきた歴史を晒し、経験から得た言葉を口にする。

若者は夢をもって生きろという。そして我々に夢を託そうとする。

幸せに、生きろという。

 

こうした生き方の人たちは、閉塞感のある己の価値観と考え方に少しだけ穴をあけてくれる存在であると思う。

私は、ゆとり世代と呼ばれる時代帯にうまれた人間である。

すべてのゆとり世代と呼ばれる人間がそうであるとは思わないが、少なくとも自分の周りの友人や同世代の人間は、リスクを恐れ、ルートや普通の枠から外れることを非常に怖がるタイプの人間が多かったように思う。

自分もそのうちの一人でもある。

成功してお金を稼ぐことが幸せで、公務員や大きな企業に就職して、若いうちに生活基盤を整えて結婚して。

そういうことを自然に考えている人が多かったかのように思う。

例えばバイトでお金を貯めてはアジアや南米に飛び立っていくような人間や、絶対にこれがしたいのだと言って会社を立ち上げたりどこかへ挑戦しに行ったりする人間は自分の周りにはいなかった。

別にそれが悪いことであるとは思わないけれど、そういう環境だったなあと今振り返って思うわけである。

 

志茂田氏やムヒカ氏の生き方というのは実に破天荒で、そしてそうであるからこそその口から出る言葉は思慮深く、穏やかで優しいものが多い気がする。

twitter上でユーザーから相談を投げかけられている存在として、志茂田氏の他に芸人の厚切りジェイソンもいる。

だけど、彼のリプライを見ていると競争社会で生き抜き、成功している人間の言葉だなあと思うことがある。

自己責任の意識が前面に出ていて、斬って捨てるような印象を覚えることも多い。

それは今まで自分の生きてきた、失敗を恐れたり挑戦をしなかったりした環境の価値観に馴染むものだなあと思うのである。

凄く端的に言うならば、「そんなこと貴方に言われなくても自分で分かってる」の言葉が多い。

 

挑戦しなくてもいいよ、自分がそれでいいと思うなら。

自分でやったことでしょう、自分で決めたことなら責任を取らないと。

決めるのは誰でもない、自分だよ。

 

そんなこと分かってる。分かってる。分かってる。分かってる。

だから失敗したくないから挑戦せず安定に走る人間が多いし、挑戦した結果成功を収めた人間には羨望と嫉妬の眼差しを向けるし、挑戦した結果失敗した人間には自己責任の一言で冷たく当たってもいいと思って、そしてああならなくてよかったと自分の立ち位置を確認して安心する。

つまり我々のような世代に根付く価値観と言うのは、強い自己責任の価値観であることを強く自覚させられてしまう。だから私は厚切りジェイソン氏のツイッターを一度だけ見て、それ以降見るのをやめてしまった。

 

私は死体蹴りされて喜ぶようなマゾヒストではないし、そうであるならばこんなに苦しい苦しいと鬱々として日々を過ごしてはいないだろう。

 

だから私は、自分の価値観をさらに強めてトレースしたような厚切りジェイソン氏の言葉よりも、違う価値観と許容を提示してくれる志茂田氏やムヒカ氏の語る言葉に心を動かされるし、その言葉に自分を許してもらったような気持ちにもなる。

甘えているといわれるかもしれない。だけど正直疲れ切っている今自分が求めているのは、斬って捨てるような鋭利さではなく、やわらかく受け止めてもらえる許容とその先に希望を見せてもらえることなのだ。

 

志茂田氏やムヒカ氏が老人と呼ばれる年代の方であるから、殊更若い世代の人間に向けてそう言う傾向にあるのかもしれない。

だっていつの時代も老人は若者に優しい。(その反面、中年は若者に厳しい)

だけど少なくとも、その人がずっと生きてきた結果がその言葉に表れているというのであれば、我々のような若者と呼ばれるような世代の人間は少しその言葉を心に留め置いて、場合によりその人生の師の言葉を思い返してみると少しだけ、自分が年老いた時にする後悔が減ることもあるのではないかと思うのだ。

 

 

…書いているうちに、何を書きたいのかよく分からなくなってしまった。

読み返すときっと支離滅裂な文章なんだろうなあ。

 

ムヒカ氏に日本のTV局がインタビューした動画を見ながらこの文章を書いていたけれど、その最中に

「旅をするのにリュックに山ほど物を詰めて行ったら、重くて仕方ないだろう」

という趣旨の言葉を言っている場面があった。

どこかで聞いたことがあるような、と思っていたけれど、確かスナフキンが同じようなことを言っていたのを思い出した。

物が溢れ、大量に消費する社会を批判し、支払に追われる人生を捨て自由になるべきだと言うムヒカ氏と、自由を愛して旅をするスナフキンにはどこか似た所があるのかもしれない。

スナフキンのように、孤独を愛するかどうかはまた別として。

 

 

 

気が付けば差し込んでいた朝日は随分と高くなってきてしまったし、気は進まないがそろそろ今日すべきことをやりはじめなければならない時間だ。

 

 

今日は休日で、天気も良くて。

きっと色んな人が外に出て楽しく一日を過ごすんだろうなあ。

 

 

おはよう世界。そして私は、穏やかな日差しが作った日陰の端で死にたいと呟きながら今日もなんとか生きてるよ。