自殺したいという者に「いのちの電話」を薦める人間は、おそらく「いのちの電話」に電話をかけたことのない人間である

 

おそらくそう言う人は、かけて話を聞いてもらったところで何の解決にもならず、かえって電話をした後に虚しさを感じた経験がないからそんなことを言えるのではないかと思う。

 

私は何も、いのちの電話の活動を批判したいわけではない。

あれはおそらく自分には出来ない活動であろうと思うし、完全なるボランティアで、夜中中起きて、死にたいだの何だのというネガティブな言葉を吐き続ける人間の話を聞くのは正直苦痛以外の何物でもないと思う。(そう思うから私は友人や家族に「死にたい」とは言わないし、愚痴や弱音の類を誰かに話すこともほとんどない。聞かせるのが心底申し訳ないと思うから)

だけどあの活動に携わる方たちは、少しでもそれで気が晴れればよい、自殺する人がいなくなればよいという気持ちだけでその活動に従事されているのである。

本当に頭が下がる思いだ。

 

実際に、話を聞いてもらって気が楽になった、もう少し生きてみようと思った人間はいるだろうと思うし、そうでなくてはあの人たちの活動が報われないだろうとも思う。

数字や何かで効果の見える類のものではないから、成果は見えにくいだろうけど、全く効果のない活動はであるならばこう長くは続いてはいないだろう。

 

私が問題にしたいのは、自殺は問題だという提言を大々的に掲げておきながら、自殺者が増えている、何とかしないといけないとさんざん口にするだけしておいて、結局最後にはいのちの電話の電話番号だけを最後に紹介してはい終わり、として良しとしているような人間のことである。

そう言う人間の書いた文章は、たとえ僕も自殺を考えたことがありますよと書かれていたとしても非常に軽薄で、本当にお前真剣に自殺を考えたことがないだろう、いのちの電話にかけて縋らざるを得なくなるほど追いつめられたことがないだろうと、どうしても思ってしまう。

なんだか、その人間の「問題意識の高く」「人道的で」「命に真摯に向き合う自分」、もしくは「過去に辛いことはあったけどそれを乗り越えて頑張って生きている自分」と言うアピールに、自殺したい人間が良いように使われてしまったような、放っておいてほしいところを土足で踏み荒らされたような反発を覚えるのだ。

そこに実際にかけたことあるのか?と、いつも本気で聞いてみたいと思っている。

 

被害者意識が強すぎるんじゃないの、って?

お前こそ気鬱の人間に向かってなに分かりきったこと言ってんの?

 

 

 

先に、私が「いのちの電話」に電話をかけたときの話をしようと思う。

 

その日は、深夜2時に目を覚ました。

眠ったのは11時を回ったあたりだったと思うから、ちょうど眠ったのは3時間ほどだった。

その時の、ここ最近の睡眠時間と言うのは軒並み3時間前後で、食事もほとんどカロリーメイト栄養補助食品に頼りきりの毎日だった。

毎日毎日強烈な不安に襲われて、自分には眠っている暇などない、眠る暇があるなら少しでも前に進まなければならぬと自分を追い立てている時期でもあった。

3時間ほどしか眠れていなくても、目が覚めた後は不思議と眠ることが出来ず、日中に襲ってくるぼうっとした眠気はカフェイン剤を使って飛ばしては机に向かう。

食事も強いストレスのせいで食欲がわかぬせいで、まるで空腹を覚えない。むしろ何かを口にすると気持ち悪さで吐いてしまいそうな予感がする。

だけど何も食べないと言うことが良くない状況であることは分かっていたので、ミルクティーやカフェオレに大量の砂糖を投入して、糖分だけは摂取しながら何とか誤魔化していた。

 

その日の昼間は、ちょうど大学時代の友人と話す機会があった。

置いて行かれた自分と、前に進んでいる、今まさに幸せな人生を歩んでいる友人たち。

その差を強く自覚させられた日でもあった。

 

目が覚めた瞬間に、言いようもなく強い不安感に襲われた。

いつもの自分の部屋で、いつもの様に目が覚めたはずなのにじっとしているのが怖かった。

真っ暗で、静かで、布団の中で丸まりながら携帯電話に手を伸ばし、ツイッターを見ては何か気を紛らわせるものはないかとあちこち見て回っては、それでも気が収まらずに、起き上がって部屋の中をうろうろと歩き回った。

死にたい、とインターネットに打ち込んで検索ボタンを押しては、表示されるサイトの中に救いを探して開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。

 

その日はいくらネットを彷徨っても、動画を見ても収まる様子がなく、暗闇の中に一人で居続ける不安に耐えかねて、タップしたのがその電話番号だった。

 

余談ではあるが、「死にたい」と打つと、「こころの健康相談統一ダイヤル」につながる電話番号が出てくる。

おそらく一度二度、死にたいと思って死に方を調べた人間であれば、大方の人間は知っていることだろうとは思うけれど。

 

 

電話がかかった先で、初老程の歳であろう男の人の声がした。

突発的に電話をしてみたは良いが、何を話していいかよく分からなかった。

 

いきなり本題を切り出すのもおかしい気がして、はじめのうちは「あー」とか、「こんな夜中に電話をかけてしまって済みません」とか。

そんなことばかり話していたように思う。

 

電話の向こうの男性は、大変親切だった。

こちらが話せるようになるまでうんうんと言いながら待ち、言葉に詰まったとしても急かすようなことはしなかった。

それで私は、今の自分の置かれた状況のこと、不安であること、眠れないこと、食事がうまくとれないことなんかを、何とかひととおり口にした。

 

最後まで聞いた男性は、私が眠れないことを大変気にかけている様子だった。

「眠れないのはいけないことだね」と言われた。眠れないと元気が出ないそうだ。

そして、近くの保健所か精神科に行くことを薦められた。

 

まあ、そういう結論になるだろうなあと思ったので、行くつもりは微塵もなかったけれど考えてみます、と言って話を切り上げた。

電話を切る前に、どこでこの電話番号を知ったか、どこから電話をかけているかという簡単な質問事項をされて、お礼を言って電話は終わり。

 

全部で15分か、20分ぐらいの通話だった。

 

 

電話を終えた後に、深いため息が出た。

こんな深夜に、くだらない話につき合わせてしまい申し訳なかったなあと電話を掛けたことを後悔した。

 

精神科に行った方がいいのかもしれないなあと思ったことはあるけれど、精神科に通う時間も、お金もなく、薬を貰えば少しは状況が改善されるのかもしれないが、それよりも薬を飲むことで起こる副作用で、日中の活動が阻害されてしまうんじゃないかという不安の方が強かった。

酷く焦っていて、そんな余裕はなくて、そして何より精神科に通う自分が許せないのである。

何度も言うが、この状況に陥ったのは自業自得であるという思いが自分には大変強いので、そのせいで精神病にまでなってしまったという事実は、楽になるどころか更に自分を追い詰めるだけにしかならないからだ。

眠れない食べれないという自分の状況を客観的に見て、おそらく何らかの薬は処方されることになるのだろうとは思うけれど、「病名」が自分についてしまうのが嫌だった。

頑張って頑張って、その末に駄目になってしまった人間と自分とは根本的に状況が異なる。

 

 

 

結局、いのちの電話の相談員と言う人は、こちらの話をさえぎらず、否定せず、ただ聞いて必要であれば専門機関を提示するという類の研修を受けているから、ここに電話したところで何か目が覚めるような劇的な解決が得られるわけではない。

 

さっきネットで死にたいと打てば電話番号が出てくると言ったことからも分かる通り、いのちの電話やら心の健康センターやらの電話番号如き、人に言われずとも死にたい人間はとっくに知っているわけで、「いのちの電話」の存在を知っているわけで、だけど知っていてそこに助けを求めないのである。

とりわけ、若い年代の人間はそうだろう。だからそう言う人間に、「いのちの電話」がありますよと投げかけてみても、心の端にすらかからない。

 

電話をかけて、話を聞いてもらったとしても現実は何も解決しない。

解決できるような方策があるならば、いのちの電話にかける以前にその方策を実行しているし、債務整理なり家庭問題なりに対する有効な相談窓口は他に存在していることなんか検索すればいくらでも見つけることが出来る。

そんな建設的な解決策を提示してくれるところに電話をかけてもどうしようもない問題で、だけど死にたいほど悩んでいて、誰にも助けを求めることが出来ず、ただ電話をかけ話を聞いてもらうのも申し訳なく、電話を掛けた後もむなしさと罪悪感がのこる。

 

それならいっそ話を聞いて救われる人間の為に回線を開けてやるのが余程いいだろうと思うので、私はおそらくいのちの電話の類には二度と電話をしないだろう。

 

 

 

例えば自殺を考えたことのない人間が、自殺についてあまり考えたことのない人間が「いのちの電話」を薦めること事態はまあ仕方がないかなと思う。

だってその人は、死にたいと思う人間の気持ちや、「いのちの電話」がどういうものかあまり分かっていないんだろうと思うから。

 

だけど自殺について偉そうに御高説を垂れたり、自殺しようと思ったけどその時は自殺を思いとどまって今生きていて良かったなどと言って、共感を得ようとする人間が軽率に「いのちの電話」を唯一の救済機関のように挙げることに、なんだか無情に腹が立つのである。

本当に自殺について知っているのであれば、死にたいと思ったことがあるのであれば、「いのちの電話」に一度でもかけたことがあるのであれば。

死にたいという人間に「いのちの電話」の存在をただ伝えることなど何の意味もない行為であり、「いのちの電話」に電話をしたところで現実はどうもならないことを知っているはずだろうと、そう言いたくて仕方がない気分になるのだ。

 

 

最後に、繰り返しになるが何も私はいのちの電話の活動を否定するつもりは微塵もない。

むしろ自分が今の状況を抜け出し、仮に金銭的に余裕が出来る状況になったとしたら、僅かなりと金銭的援助が出来ればいいなあと思う程度には応援したい活動であると思っている。

今後「いのちの電話」にかけることはないだろうが、「いのちの電話」の相談員の人のように、潜在的に「私」を含めた誰かの自殺を防ぐために、人生の一部を使って頑張ってくれている人間がいると言うことは、少なからず死にたい死にたいと毎日を過ごす人間にとって、救いの一端になっているのは確かなのであるから。