風邪と自殺念慮、時々震災支援

 

しばらくひいたことがないような、ひどい風邪だった。

鼻水と鼻詰まりで酸素供給経路がひとつ立たれている。それに加え、酷い咳とくしゃみの波状攻撃のおかげで残った方の供給経路からも酸素が確保できない。

 

 

 このまま窒息死するのではないか。

 

そんな想像が頭をよぎる。

 

でも、それでもいいのではないか?

だってあんなに死にたいと思っていたんだから、病気で死ねるなら良い機会じゃないか。

自殺と違って病死なら問題なく保険も下りるだろう。

そんなことを考えながら布団にくるまってゲホゲホずびずびやっていたけど、まあ、でも風邪程度で死ぬほど歳を取ってもいないので、数日すれば日常生活に支障がない程度には自然に回復した。

残念なような、健康のありがたさを知れたような複雑な気持ちだ。

 

病死、というのはやはり苦しんで苦しんで死ぬことになるんだろうな。

がんや心疾患で死ぬ人と言うのは、さぞお辛いに違いない。

いっそ殺せ、と、死ぬまでに何度思うんだろう。

 

しかしだからと言って、そう言う人がいるのだから私は頑張って生きよう、と思うかと言われるとそうでもない。

そう言った人の姿を通じて「死にたいと思うことは間違っていた」と思い直して、前向きに生きようと思える人はそれでよい。

きっかけはどうあれ、そう思える方が正しいし生き物として全うである。

 

しかし私はそう素直に己の考えを治すことも、死にたいと思う気持ちを修正することもできない。

人の生き方や言葉に元気をもらう事や、それで何とか前を向いて行こうとする努力することは勿論あるけれど、そうしたところですぐに風船が萎むようにまた元の状態に戻ってしまうのだ。

「頑張ろう」と頑張る気が持続しない。

とんだ役立たずのくそ野郎である。

だから生きたいのに死んでしまったり、不慮の事故で未来ある若者が死んでしまったりした話を聞くとただただ申し訳なくなる。

 

交通事故然り、通り魔然り、自然災害然り。

報道を見ながら、「私が代りに死ねればよかったのに」と思うことがよくある。

その日その場に自分が居合わせたら、突き飛ばしてでもその命の代わりに自分を差し出しただろうに、と。

 

そういうことを耳にすると、実際にその事件や事故に自分の近しい人が関わった人にとっては、私のような考え方をする人間は不愉快で不謹慎な人間のようにも映るかもしれない。

自分にとっての「悲しい現実」を、まるで関係のない人間が、安全な所から無責任に茶化しているように見えたりするだろう。

大切な人の「死」や自分の置かれている「悲惨さ」を愚弄されたような、どうにもひどく軽々しく扱われたような気持にもなるだろう。

だけどそうではなく、決して死者を愚弄したいわけでも軽く扱いたいわけでもなく、なんとなく私という希死念慮自殺念慮を持つ人間は、そういう「生きたかった人間」が死んだ反面「死にたがってる人間」の自分が生きていることに妙な後ろめたさや、居心地の悪さのようなものを感じるのである。

「代われるものなら自分が変われれば良かったのに」と思ってしまうのは、こうした後ろめたさや申し訳なさの自分なりの発露なのだろう。

 

先に起きた熊本地震をはじめ、震災の際に過剰な程の「何かをしましょう」「支援しましょう」という運動や、過度の不謹慎と自粛が起きるのも、この「感じる必要のない申し訳なさ」という感情がその一因に含まれているのではないかという気もする。

こと同じ日本と言う国の中で、「自分は普段通りの生活が遅れている反面、不慮の自然災害で苦しい生活を余儀なくされている人がいる」という状況に、妙な罪悪感を感じてしまうのだ。

だからそれを解消したくて、無理に支援活動をしようとしたり、不要な自粛をしてしまったりするのではないだろうか。

 

ただの推測でしかないけれど。

 

 

まあでも、仮にそうだとした場合。

面白い違いだなあと思うのは、私が生きたかったのに死んだ人という「既に亡くなった人」に対して後ろめたさを感じるのに対して、世の中の人は(おそらく)「今生きて避難所などで不自由な思いをしている人」に後ろめたさを感じているところだ。

 

死にたい死にたいと考えていると、生者よりもまず死んだ人の方に目が向くようになってしまうものなんだろうか。

流石にそれはどうかと自分でも思うので、少しでも生きてる人の助けになればとささやかながら募金をしてきた。

 

今ではTポイントでも募金が出来るというのだから、世の中は随分と進んでいる。

 

 

 

 

 

 

ところでこんな辺境のブログにも何故かぽつぽつとアクセスがあるようで、特に最近は記事更新もしていないのにどこからかおいでになる人がいる。

見ればどうも北条かや周辺がまた盛り上がっており、その影響で該当記事を訪れる人がいるようだ。

正直「まだやっていたのか」という気がしないでもないが、すでに半ば「終わったコンテンツ」化していた件の論争について、再び注目を集め人々の口に「北条かや」という名を上らせることに成功しているので、意図的であるにしろそうでないにしろ、やはりあの人はタイミングを掴むのが上手いのだろう、と思う。