自殺をなにか美しいものととらえる不快な風潮
三島由紀夫の「死の美学」という本を見かけて、ふと思ったことがある。
自殺を美しいものと捉える傾向は、殊更文学などの中に見受けられることがあると思うがそれが一体どれほどの人に、現実味をもってフィクションであると認識されているだろうか。
美しいとは言わずとも、自殺を潔いことだと思っている人間は一体どれくらいいるんだろう。
個人的な事を言わせてもらえば、自分は死を真剣に考えるようになるまでは潔いことだと思っていた。
採るべき手段が無くなった時に、生活保護を受けたり、人に後ろ指を指されながら生きたり、生きるために犯罪に手を染めるより、自殺と言う方法を取る方が余程己の名誉を守り、自尊心を傷つけず、人の迷惑にならない「潔い」答えであると思っていた。
念のために言うが、生活保護を受ける人のことを批判したいのではなく、自分自身が生活保護を受ける価値がないと思うのだ。こんな未来もなにもない人間にお金を払うのであれば、未来ある若者にそのお金を使ってほしい。
だけど真剣に自殺を考えるようになってからは、潔いとか自尊心がどうだとか、そんなことはまるで頭から抜け落ちてしまっている自分に気が付いた。
そんなことまで考える余裕がない。
ただ楽になりたい。この苦しさから解放されたい。
自分に関わる大勢の人間に影響を与えてしまう事をわかっていながらも、心の中でかけてしまう迷惑と不義理を謝りながら死んでいくんだと思う。
こんな心の内を抱えながら死んでいくことのどこが美しくて、どこが潔いと言うんだろう。
たとえこの死ぬ理由が悲劇的な恋を経た心中であっても、世の中を悲観して苦しくて仕方がなくて悲しくて死んでいく気持ち自体は変わらないと思うんだよ。
それを見てまわりの人間がそこに美を感じたり、なにか単なる自殺とは別次元のよいものとして捉えてしまう事は、なんだかずいぶんと勝手で、いびつなもののような気がする。
そんな、そんなものじゃないだろうって。
その裏にどれだけ悩んだ時間と苦しみがあって、どれだけ悩んだ末の結論であるかを考えようとせず、ある側面だけを切り取って、自分の言い様に歪曲して、その自分の妄想に酔いしれて。
結局、先の中学生の自殺に対する反応について不快を感じたのもそこに帰結するのかもしれない。
ああもうなんか、上手く言えないけど。
自分の死にたい気持ちを止めるために自殺防止に関する動画を見たりすることがあるんだけど、「生きたくても生きれない人がいる」系のことを言っている人が出てくると正直それだけで不快になるし、ああこいつ何もこっちの気持ちを分かろうとしてなくて自分の正義感だけ押し付けようとしてるなって、それだけでそれ以降のその人の話を聞きたくなくなるんだけどそれに近い不愉快を感じる。
まあでもあれかなあ。
自殺と言う最大の勝手をする人間には、人の勝手に憤る資格なんてないのかなあ。
少しさびしいような、虚しいような気持になる。
苦しいなあ。