人のふり見てわがふり直せ

 

 

前にも言ったかもしれないけど、自殺したい・自殺してしまう人間て言うのは自分を客観視出来ていないのだろうなと、しみじみと思ってしまう。

 

自分が死にたい人間なものだから、他の「死にたい人間」はどういう気持ちで今生きてるんだろうと知りたくなって、自殺したい人の集まるサイトを覗いたり、動画サイトで自殺する人の話を見たり、逆に自殺防止啓発動画を見たりすることがある。

ジェノサイド系の動画を見て、安全に生きていられるのはしあわせだと思わないといけないのだと言う気にもなるが(自分で自発的に思うのは良いが、こういうことを人に言われるのは大嫌いである)、思おうとしてそう簡単に思い込めるならこんなに死にたいと思っていない。

 

死にたい原因にも些細なものから重いもの、これ本気じゃないだろうなあ「悲劇のヒロイン」がやりたいだけだろうなあと思うものまでいろいろある。

そういうの見てると、自分自身だって死にたいと思ってるくせに、「若いのに、今から何だって出来るだろうに」とか「そんな原因で死ぬな」って、自分が言われたらちょっと溜息をついてしまいたくなるような言葉をつい人にかけたくなることがある。

 

多分、人から見たら自分も同じことなんだろうなあ。

 

でもなんというか、何だろう。

自分には価値がないと思っているものだから、自分の中では自分が自殺することと人の自殺を惜しむことと言うのは矛盾した行動ではないという気持ちも少なからずある。

 

人間にはすべからく生きる価値がある。ただし私は除く。

っていう考え方をすることがどうにも多い。よそはよそ、うちはうちを究極に突き詰めた形というか。

主語は「人間」なり「若者」なり「女性/男性」なりになったりするけど、「自分」はそういった大きなくくりの中の外にいるという意識がある。

だから人間には生きる価値があるし、若者はいつだってやり直せるんだからもう少し生きればいいのにと思うし、世界は素晴らしいと思うけど、ただし自分はそこには含まれてない。

 

他の「死にたい人間」ってどう考えているんだろう。

自分も死にたいから、人の「死にたい」も無条件に肯定するんだろうか。

 

死にたいと思うことは悪いことではないし、本当に死にたいというのならそれは止められないと思うし、自分がこうだから止める権利もないとは思うんだけど、でもどちらかというなら私は自分以外の人は生きてくれればいいのになあと思うなあ。

 

 

世の中は連休で浮かれているんだろうけど、私は一層死にたい気持ちが高まっている。

いいな。みんな旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、好きな人たちと笑いあったりするんだろう。

 

ここしばらくは何も考えずに、心から休みことのできる休日と言うものはなかった気がするなあ。

死ぬ前にはふらっと行きたかったところをめぐってから死のうか。

でも死ぬ前にどうしても行きたいと言う所もあんまり思い浮かばないけどなあ。