日本が銃社会じゃなくてよかった、きっと今より自殺が増えていただろうから

 

正直言うと良かったような、少し残念なような気分なんだけど。

 

夜ベッドに横になりながら、ベランダを乗り越えて落ちる想像をしたり、刃物がすっと胸元に入り込んで肉と骨の間を進んでいく様子を想像したり。

具体的に死ぬことを考えることは、まあ多いというわけではないけど少ないとも決して言えないって言うくらいの回数、考えたことがある。

 

でも「もし自分が自殺するならどうするか」って考えたことある人は、べつに健康なひとでもあると思うんだ。

列車への飛込み、首つり、服毒、割腹、焼身、溺死、感電死、練炭、失血、凍死。

色々あるけど、結局みんなどれがいいって結論に落ち着くんだろう。

 

本当に余裕がなくなった時には後に残る金銭賠償の問題とか、借家の場合は大家に迷惑がかかるとか、そういうことを考えている余裕なくフラっとやってしまうんだろうけど、まだそういう事後処理を考慮に入れる余裕がある程度の希死念慮の場合には、いろいろと考えてしまって二の足を踏んでしまう。

飛び込みは金銭賠償が問題で、首つりはどこでするかが問題で、服毒服薬は助かる可能性も高いし生き残った時の後遺症が心配で、服毒や焼身はきっと痛くて苦しんだろうなあ死ぬ時まで苦しんで死ぬのは嫌だなあ、とか。

 

要は痛みと、成功可能性と、事後処理が問題。

 

その点で言えば、拳銃自殺と言うのは前ふたつをクリアするし、特に途中で痛みや苦しみで躊躇ったりしないからすごくいい方法だなあと思う。

逆に言うと成功率が高いからこそ、そういう自殺手段が自宅の、人目がなく引きこもっていて鬱思考になりがちな空間に置かれていて、手が伸ばしやすい場合には突発的に頭を打ち抜きたくなってしまう夜に「自殺できてしまう」

 

正直わたしも自宅に銃があれば、自殺に至らないまでも太ももぐらい打ち抜いてるかもしれない。周りの人間には「手入れをしていて暴発した」何て言い訳をして。

 

苦しみから逃れたくて自分の体を傷つける、という行為は、未だに自分でもあまりその根本的な行動原理を理解できてないけれど、

何だろうなあ、苦しくて居てもたってもいられなくて、良く分からない焦燥感のようなものに追い立てられるようで、じっとしていられなくて、快楽のような生ぬるいものでなく、もっとハッとするような弾け飛ぶような意識を塗り替えてくれるような痛みが欲しい、っていう、そういうことなんかを色々とぐるぐる考えた末に自分を傷つけることが多いかもしれない。

 

ちなみに色々と考えた結果、個人的には餓死がいいのではないかと思っている。

気鬱になると食欲がそもそもわいてこなかったりするし。

 でもドアノブもいいなあ

占い師とはお金を払って励ましてくれる人のことである

 

あまりにこう色々と疲れてしまったので、ふと誰かに話を聞いてもらいたくなって「占いに行ってみよう」という気になった。

 

早速、目の前にある箱を使って調べてみる。

当たらないよりは当たる方がいいだろうと「占い 当たる」と検索ワードに打ち込んで検索した。

検索ワードのいちばん上に出てきたのが「ギャル占い師」で、すでにこの時点で心が折れかかる。今の自分のようなメンタル状況でギャルなんてテンションの高い人種に接触しようものならそれだけでなけなしの何かがゼロになってしまう気がする。

 

次に、検索ワードに地域をプラスしていくつか口コミなどを参考にしつつ、いくつかの占い師のサイトを見てみた。

実はお金を払って占いに行くのは初めてなのだけど、占いって思いのほかお値段が高いものなんだなあと初めて知った。30分5000円、何ていう所もザラにあるし、もっと高いところだと20分6000円とかエトセトラエトセトラ。

これなら一時間一万と少し払って風俗の女の子呼んで話を聞いてもらった方が良いような気もする。

 

でも別に言われたことを鵜呑みにしたいわけでも行動指針にしたいわけでもないから、もっとお手軽なものないかなあ他にないかなあと探していたら、商業ビルの中にある占いの館的な物があるのに気が付いた。

ああそうだそこにしよう。

そう決めて早速、翌日の出先のついでに立ち寄った。

 

昼の商業ビルは人もまばらだった。

目的の占いの館に着くと、入口に今日いる占い師の人の紹介の紙が貼ってある。

今日は4人ほどいるらしい。

名前の下に出来る占いがあって、人によって四柱推命、タロット、手相などなどそれぞれ書いてある。

 

だけど正直、書いてもらったところで詳しくないので誰が・どれがいいかよく分からない。

悩みの種類によってはこれが適している、という占い形態があるのだろうが門外漢の私にはまるで分からない。

名前も普通の名前の人もいればゴー☆ジャスみたいな名前の人もいて何を基準に判断したものか分からない。

そもそもどんな顔してこの中に入っていくべきか分からない。

 

入り口で挙動不審にきょろきょろと中をうかがう私に気が付いたのか、中から占い師さんが「さあここに座れよ」みたいな顔で自分の前の席を示してくる。

パーマをかけた少し派手目の年配女性だった。

この誘いに安易に乗っていいのか。本当に?

そんな不安もありながらも、しかしここで立ち尽くしていても何も始まらないのでおずおずと中に入って腰かける。そういう雰囲気にしてあるのだろうけど、部屋が薄暗いのでどうも入りにくいんだよ。こういう所に慣れていない人間には。

 

頭の中でこの人何の占いの人だろうかと思い出そうとするも、四柱推命とタロット、後それ以降が思い出せない。

席に座るなり、名前と生年月日を書くように言われて言われるがままに書き記す。

コースと時間をどうするか尋ねられ、よくわからないまま選択。

取りあえず一つのコンテンツ(恋愛、とか仕事、とか)について占ってもらうことに。

この時点で、漠然と将来どうなるかを占って欲しかった自分の目的と少しずれているのだけど、もうなんかそれはそれでいいかなあと言う気持ちで占いの結果を待つ。

 

私にはよく分からない荒れた字で色々と書き込んでゆく年配占い師。

そしてそこから私には理解できない何かを読み取って、いろいろと全体的にいいことばかり言ってくれる。

こちらが少々ネガティブな発言をしても、手相やら生年月日やらとを根拠にポジティブな言動を返してくる。

星がこうだから大丈夫だとか、あなたはこういう人間だから××になっても問題ないとか。

 

こちらは手相や何やについての知識がないものだから、そう言われると「そういうものなのかなあ」という以外ないし、だけど不思議なもので、10分程度のことだったけれどそう言われ続けると少しだけ気分も上向きになるものである。

 

「はあ…」とか「あ~…」みたいな、素直さの足りない占い甲斐のない反応しか返せなかったけど、年配の女性はひたすらにしゃべってくれる。

人に話を聞いてもらいたいと思っていたのに完全に聞く側に回っている。

具体的に自分の状況がどうとか、これで悩んでいるとかまるで話していない。

 

そうこうしているうちに占いの時間はすぎ、私は根拠のよく分からない沢山の「あなたなら大丈夫!」を貰って、少しだけ笑って占いの館を後にした。

 

 

人に話を聞いてもらいたいという当初の目的は不達成に終わったが、人に「大丈夫」とこんなに言ってもらうことが随分と久しぶりだったのでなんという、少し不思議な気分だった。

 

 

 

 

私は毎日、しにたいしにたいと思いながら生きている。

 

自分はダメな人間で、生きる価値などちりほどもなく、ただ資源と金を浪費するだけの生産性のない存在で、だけどこんな人間でも自殺したら親家族が泣くだろうし下手をすると向こうが鬱になったり自殺したりしかねないと思うから(逆に言えばこれ以外の未練がこの世にない)、死ぬこともできずにうろうろと生きている人間である。

 

だから、自分で自分に「大丈夫」なんて声をかけてやることはない。

昔はそう言うこともあったけれど、今はもうそんなこともない。

毎日自分を責めて、己の不甲斐なさを悔いて生きている。

 

 

そんな自分に、久しぶりにかけられた「大丈夫」だった。

「占い」という非科学的でふんわりとしたものを根拠にして、まるで私の人となりも現状も知らない人間からかけられた「大丈夫」だった。

 

 

きっとすぐに、また死にたいと思い始めるだろう。

自分に実力がないことは誰よりも自分が知っているから、きっと将来「大丈夫」にはならないだろう。

 

 

だけどそれでも、その人が、占いという自分なりの根拠を元に、私にかけてくれた「大丈夫」は少しだけ私の心に残った。

 

 

 

占いは良く分からない。

名前の画数や、適当に置いたタロットで何が分かるのだとも思ってしまう。

余程入れ込んでいる場合を除いて、世間の人だって占いの信ぴょう性についてはよくて半信半疑と言った所だろう。

 

だけど、そうやって占われて、ポジティブなことを言ってくれて、場合によっては気を付けるべきところを指摘してくれて。

そうやって誰かが「自分」のことを考えて、そしてアドバイスをして励ましてくれるその時間に、時に、少しだけ救われることもある。

 

風邪と自殺念慮、時々震災支援

 

しばらくひいたことがないような、ひどい風邪だった。

鼻水と鼻詰まりで酸素供給経路がひとつ立たれている。それに加え、酷い咳とくしゃみの波状攻撃のおかげで残った方の供給経路からも酸素が確保できない。

 

 

 このまま窒息死するのではないか。

 

そんな想像が頭をよぎる。

 

でも、それでもいいのではないか?

だってあんなに死にたいと思っていたんだから、病気で死ねるなら良い機会じゃないか。

自殺と違って病死なら問題なく保険も下りるだろう。

そんなことを考えながら布団にくるまってゲホゲホずびずびやっていたけど、まあ、でも風邪程度で死ぬほど歳を取ってもいないので、数日すれば日常生活に支障がない程度には自然に回復した。

残念なような、健康のありがたさを知れたような複雑な気持ちだ。

 

病死、というのはやはり苦しんで苦しんで死ぬことになるんだろうな。

がんや心疾患で死ぬ人と言うのは、さぞお辛いに違いない。

いっそ殺せ、と、死ぬまでに何度思うんだろう。

 

しかしだからと言って、そう言う人がいるのだから私は頑張って生きよう、と思うかと言われるとそうでもない。

そう言った人の姿を通じて「死にたいと思うことは間違っていた」と思い直して、前向きに生きようと思える人はそれでよい。

きっかけはどうあれ、そう思える方が正しいし生き物として全うである。

 

しかし私はそう素直に己の考えを治すことも、死にたいと思う気持ちを修正することもできない。

人の生き方や言葉に元気をもらう事や、それで何とか前を向いて行こうとする努力することは勿論あるけれど、そうしたところですぐに風船が萎むようにまた元の状態に戻ってしまうのだ。

「頑張ろう」と頑張る気が持続しない。

とんだ役立たずのくそ野郎である。

だから生きたいのに死んでしまったり、不慮の事故で未来ある若者が死んでしまったりした話を聞くとただただ申し訳なくなる。

 

交通事故然り、通り魔然り、自然災害然り。

報道を見ながら、「私が代りに死ねればよかったのに」と思うことがよくある。

その日その場に自分が居合わせたら、突き飛ばしてでもその命の代わりに自分を差し出しただろうに、と。

 

そういうことを耳にすると、実際にその事件や事故に自分の近しい人が関わった人にとっては、私のような考え方をする人間は不愉快で不謹慎な人間のようにも映るかもしれない。

自分にとっての「悲しい現実」を、まるで関係のない人間が、安全な所から無責任に茶化しているように見えたりするだろう。

大切な人の「死」や自分の置かれている「悲惨さ」を愚弄されたような、どうにもひどく軽々しく扱われたような気持にもなるだろう。

だけどそうではなく、決して死者を愚弄したいわけでも軽く扱いたいわけでもなく、なんとなく私という希死念慮自殺念慮を持つ人間は、そういう「生きたかった人間」が死んだ反面「死にたがってる人間」の自分が生きていることに妙な後ろめたさや、居心地の悪さのようなものを感じるのである。

「代われるものなら自分が変われれば良かったのに」と思ってしまうのは、こうした後ろめたさや申し訳なさの自分なりの発露なのだろう。

 

先に起きた熊本地震をはじめ、震災の際に過剰な程の「何かをしましょう」「支援しましょう」という運動や、過度の不謹慎と自粛が起きるのも、この「感じる必要のない申し訳なさ」という感情がその一因に含まれているのではないかという気もする。

こと同じ日本と言う国の中で、「自分は普段通りの生活が遅れている反面、不慮の自然災害で苦しい生活を余儀なくされている人がいる」という状況に、妙な罪悪感を感じてしまうのだ。

だからそれを解消したくて、無理に支援活動をしようとしたり、不要な自粛をしてしまったりするのではないだろうか。

 

ただの推測でしかないけれど。

 

 

まあでも、仮にそうだとした場合。

面白い違いだなあと思うのは、私が生きたかったのに死んだ人という「既に亡くなった人」に対して後ろめたさを感じるのに対して、世の中の人は(おそらく)「今生きて避難所などで不自由な思いをしている人」に後ろめたさを感じているところだ。

 

死にたい死にたいと考えていると、生者よりもまず死んだ人の方に目が向くようになってしまうものなんだろうか。

流石にそれはどうかと自分でも思うので、少しでも生きてる人の助けになればとささやかながら募金をしてきた。

 

今ではTポイントでも募金が出来るというのだから、世の中は随分と進んでいる。

 

 

 

 

 

 

ところでこんな辺境のブログにも何故かぽつぽつとアクセスがあるようで、特に最近は記事更新もしていないのにどこからかおいでになる人がいる。

見ればどうも北条かや周辺がまた盛り上がっており、その影響で該当記事を訪れる人がいるようだ。

正直「まだやっていたのか」という気がしないでもないが、すでに半ば「終わったコンテンツ」化していた件の論争について、再び注目を集め人々の口に「北条かや」という名を上らせることに成功しているので、意図的であるにしろそうでないにしろ、やはりあの人はタイミングを掴むのが上手いのだろう、と思う。

 

 

朝は自己嫌悪で忙しい

 

最近いよいよメンヘラ化が進んでいるように思う。

今日はいてもたってもいられずに、自分で自分の腕を殴りつけたりした。

右手で左手を、左手で右手をってことね。

 

リストカットなんかの切り傷はどうしても跡が残るからなあ。

その点打撲跡なら数日もすれば内出血も消えるから、都合がいい。

 

あとものすごく正直に言うなら、血とか無理だし自分に刃物を突き立てる行為がどうにも苦手。

何と言うか、リストカットにはどこか切腹に通じるものを感じる。現代の武士かよ。

 

リストカット跡は隠しにくいし、目にとまると分かりやすく「メンヘラ」なので、そういう方向で気づかれたくないというか気を遣われたくないというか、精神不安定であることを周りに知られたくないタイプの死にたがりなので、そういう分かりやすい「メンヘラ」アイコン的な跡があるのが非常によろしくない。

なので自傷としてするなら髪の毛を抜くか、人に見えない部分を殴りつけるか、火であぶった刃物を押し当てるか。

やむを得ず人目に触れることがあったとしても、火傷跡だと意外と不審に思われないような気がする。いわゆる「普通の人」のなかで、「自傷」と「切り傷」が結びつくことは容易であっても「自傷」と「火傷跡」が結びつくことはそう多くないと思うから。

タバコを吸う人は自分の手にタバコの火を押し当てることもあるそうなので、絶対的に結びつかないわけでもないとは思うけど。

 

自傷行為にも一応の利点があって、ただ延々と鬱々とし続けるよりも、自分で自分を痛めつけると一通り気持ちが落ち着くので、そこで鬱思考を切り上げて勉強したり働いたりする方向にいけるから、その方が効率がいいこともある。

お陰様で今は少しスッキリしている。

 

ああまた今日も一日が始まるなあ

この鬱々とした気持ちが無くなる日はいつか来るのだろうか

 

驚くほど情緒不安定

 

今日から数日間、ちょっとした試験のような試練のようなものを受け続けることになる。

実力が伴わず、努力も十分でないくせにそれをしなければならないのが苦痛で仕方がなく、そんな状態なのでやるまえから結果なんてわかりきっているのにそれでも足掻こうとしてみたり、無理だ無理だとあきらめて無気力の極みで何もかも投げ出したりということをここ数日繰り返していた。

おかげさまでいつもの様に精神状況は不安定で、今日は一睡もできずに朝を迎えた。

 

今は明るくなっていく空を見ながら、「おいしいあさご飯が食べたいなあ」って思ってひとりで泣いている。それぐらい情緒不安定だ。

 

自分でも意味がわからないけど、朝を迎えてしまったことに、ついに裁きのようなものが下されてしまうような、現実を突きつけられることに絶望しながらどこかで救われたいと思って出てきたのが「おいしいあさごはん」だったのだろうと思う。

おそらくは、温かくておいしいご飯というものに幸せの一端を見ているのだ。

 

(余談だがこういう「死にたい病」になってから毎日朝を迎えるのがものすごく苦痛になって「ああまた今日も朝がきてしまった」思う様になり、鬱の人が何故朝辛いのかということを身をもって知った)

 

死刑囚だって、死ぬ前には最後の晩餐を食べられる機会があるんだ。

私にだって最後に美味しいものを食べることぐらい許されたっていいだろう。

 

とはいえ、最近ではずいぶん食が細くなってしまい(昨日はチョコバーと魚肉ソーセージぐらいしか口にしていない)、何が食べたいという意欲も衰えてしまっているのであまり具体的に「こういうあさごはんがたべたい」というイメージもなかなか湧いてこない。

なんとなく和食かなあという、ざっくりとした想像が出来る程度。

我ながら「おいしいあさごはん」って一体どういうものを思って出てきたんだろうなあ。

 

 

それにしても、死刑囚に最後に与えられる幸福というか、餞別と言うか、自由というか。

そういうものが「食事」であることを考えると、今のふっと湧いて出た思い付きと、それが妙にリンクしているようで不思議な気持ちになる。

やはり、幸せというものは最終的にはごはんの形をしているのかもしれない。

キューピーも「愛は食卓にある」って言うぐらいだし。

 

私も北条かやのようにメンヘラ文章1記事数千円で売りたい

 

例の騒動で結局一番得したのは誰かって言えば、間違いなく北条かやだと思う。

知らなかった層にも一気に名前広がったし、記事の値段釣り上げても興味本位で記事を買う人間は少なからずいるだろうと思うし、嫌われていようが何だろうが結局人の注目を集められるライター(というのも非常に抵抗があるが他に言い様がない)になってしまったわけで。

ノンスタ井上なんかも「イラッとする」ってよく言われてるけど言うならばそれで生き残ってる感じあるし。たとえ嫌っていたとしても多分北条かやがテレビにでたり本書いたりしたら、それを気に入らない人が叩こうと思って見る・買う行動をとるから、結局それがお金になってしまうんだよなあ…

好意で売れようが、悪意で売れようが、売る側にとっては売れればどちらでも言い訳だ。

 

最近の記事のタイトル+記事の書き出し部分だけ見ても一瞬興味ひかれるんだよね、ああいう死にたいとかなんとか書かれると。覗いて見たくなるというか。

それは自分がこういう死にたいだの何だの言ってる人間だから余計に気になってしまうのかもしれないけれど、健康な人間は健康な人間なりに、自分に関わらない、迷惑のかからない範囲でそういう物を覗いてみたいという気持ちになる事もあると思うんだよ。

それこそ北条かやが良く書いてるような、整形だの風俗だの言うゴシップ的な話と言うか、身近にはあるんだろうけどどこか日常から薄皮一枚被ったような世界の話って。

 

だからなんというか、タイトルの付け方にしろ文章の書き方にしろ、上手いこと人の気を引く方法分かってるなあって思う。

ただそういう「気を引こうとしてる」感が透けて見えると途端にイラッとしてしまうもので、加えて記事が有料高額でそれで儲けようとしているように見えるから更に人の腹立たしさに油を注ぎ、という流れで余計に反感を買っているんだろう。

 

いーいなあ私もひと記事5000円でブログ書きたい

5000円って分厚い専門書1冊分のお値段じゃない?

研究職の人間が長い時間かけて知識と理論を詰めて書いた本と、数分少々で書いた然程内容のない文章の値段が同じって、いい商売だなあ

 

ただまあ、今の所北条かやは俗にいう「バブル」状態なので、これが一体どれほど続いて行くのかと言うことが問題だよね。

姫キャラで売っていくにも年齢的にそう長くできないだろうし、炎上マーケティングも二回三回するうちに新鮮味が無くなってしまう。

実力のあるライターならそれでも自分の腕で食べていけるだろうけど、正直メンヘラ記事を商品として売る人間にそういう実力があるのかと考えてもいまいちそうとは思えないし。

 

ここまで書いてて、随分トゲのある書き方をしていると自分でも分かるんだけど、お察しのとおり私も大分北条かやに苛立ちを感じている人間だ。

何でかって言うとあの「死のうと思ったけどギリギリ死ねませんでした」の流れからの「死にたい」でお金儲けしようとしている点。

飛田の件で風俗嬢の方が反論していたように、誰しも自分の属している領域の話になると結構敏感に反応してしまう物だと思う。

加えて、これは一個人の考えなんだけど、とりわけそこに必要性もないのに興味本位で入り込んで来たり、本当はそうではないのにそこに属している人間であるかのようにふるまう、当事者ではない「第三者」的存在が入ってくることにひどい腹立たしさと抵抗感を感じる。

 

死にたい人間は「死のうと思ったけどギリギリ死ねませんでした」なんて報告するような心理状態じゃないし、「死にたい」で金儲けしようとなんてしないんだよなあ。

「死のうと思って」「ギリギリ死ねない」って言うけどあの人一体どういう方法で死のうと思ったんだろう?どういう意味でギリギリなの?

 

 

いいなあ、私もこういう実益も中身もない記事を数千円で売りたいなあ

 

 

この様に書いておくと、「何を偉そうに、お前も死にたいで金儲けしたいんじゃないか」という人に発見→叩かれることによって思いがけず()知名度を得られたりするのが炎上マーケティングなんだよねえ。

まあ、些細な皮肉みたいなものだよ。タイトルも含めて

 

 

炎上マーケティングするにはそもそも、まず最初にそれなりに知名度のある人間に叩いてもらうことが拡散の為に必須なので、そう言う面である程度炎上マーケティングする上ではあらかじめ叩いてくれる人間に当たりを付けていたり、知名度のある人間に頼んで叩いてもらってるんだろなあとは思うなあ

 

タバコとお酒に手を出す、の巻

 

死にたい気持ちがおさまったり、また浮かんだり。

そんな風にフラフラしてるけど、最近は色んな人のお陰で少しだけましになってきているような気はしている。

今日は外に買い物に出かけたけど、通りがかった公園では人がいっぱい。

みんな楽しそうにお花見していて、少しだけ羨ましかった。

 

買い物に出た目的は、タバコとウイスキーを買いに行くこと。

ストレス解消に逃げてはいけないものTOP3に入るものだろうなあと思うけど、死ぬよりはましじゃないかと思ってやってみることにした。

それで気分が少し軽くなれることに一縷の望みを抱きながら。

でもそれで「気分が晴れた」って言ってる人を、あまり見たことがないことも頭のどこかで理解してもいる。

 

ウイスキーはジェムソンのスタンダード

タバコはアークロイヤル

 

どっちもその辺に売ってる類の物じゃなかったから、少し遠出する必要があった。

ウイスキーは飲みやすい方がいい、タバコはどちらかと言えば甘くて匂いがよいものがいいと考えた結果こうなってしまって、近くのコンビニやスーパーで手に入らないのが少し面倒くさいなあもうやめようかなあと思いながらも、結局買ってきてしまった。

 

お酒は飲み会でハイボールやビールを飲む程度、タバコについては完全に若葉マークだったので、なんだかひどく悪いことをしているような気分になった。

なんだか親に隠れて酒やたばこをする高校生にでもなったみたいだ。

高校生の時はこんなこと、考えもしなかったのに。

 

反抗期らしい反抗期と言うのも自分にはなかったような気がするけど、それは別に反抗期と言うプロセスを経る必要がなかったからのような気もするし、はたまた親ではない、兄弟や部活動なんかの別の物に向けられていたような気もするし。

反抗期と言うのは自我の芽生え及び自己の確立に当たって、親を始めた庇護者の指示や指導から抜け出そうとする状況のことを言うと思うのだけど、うちの親は結構好きにさせてくれていたと思うから、なんというかあまり反抗する必要もなかったんだよなあ、多分。

家庭環境が良いかどうかは置いておいて、親という点で言うならば自分はとても良い親の元に生まれたのではないかなあと思ってる。

だからこそ今の状況がとても申し訳ないし、死ぬか否かを考えたときに、別に他の人間(友人や恩師や祖父祖母たち)については、悲しんでくれるだろうなあと思いはするものの然程大きな抑止力にならないのに対して、親についてだけは何とも言えず、あの人たちが悲しむから死んではいけないなあと言う気持ちになってしまう。

貴方たちさえいなければ蒸発するなり死ぬなりもっと身軽で居られるのに、と逆恨みのような気持を抱かないわけでもないんだけど、それよりは恩返ししたいなあ親孝行したいなあと言う気持ちが勝るので、今のところまだ踏みとどまって頑張ろうとしている。

 

さて、酒とたばこの話に戻るけど、試してみた結果やっぱりというか、思ったほど大した効果は得られなかったなあ、という感想だ。

タバコは二本ほど吸ってみたけれど、何というか吸っている間ひどく手持無沙汰で、思いきり吸い込むと喉がひどくヒリヒリした。

ヤニクラ、という状態にもならなくて、何となく肩すかしを食らったような気分。

 

酒については流石にまだ日が高いし、夜になってから寝る前に飲もうと思う。

 

 

ああまた一日が終わってしまうなあ。

5時を過ぎたら、何となくもうその日が終わってしまったような気持になる。